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ティーブレイク
~サステナブル江戸時代~

みなさんは、「サステナビリティ」「カーボンニュートラル」「SDGs」「ESG」「CSR」「サーキュラーエコノミー」「ジェンダー」「ダイバーシティ」「フェアトレード」等々、誰かに「これって何のことですか?」と聞かれたら正しく答えることができるでしょうか?

詳細を知りたい方は、私どもが提供している無料セミナー、あるいは高度な知識が必要であれば有料セミナー等をご受講いただくことにして、少し肩の力を抜いたお話をいたしましょう。

国立国会図書館デジタルコレクション 『東都青山絵図』 より

ペリージョンソン本社所在地の広尾一丁目周辺は、江戸時代の絵図によれば、かつては寺院が集まった寺町でした。その名残から、いくつかの寺院が現存しています。江戸時代、当地に寺院が集まった理由や当時のサステナビリティ的な慣習に目を向けてみましょう。

「火事と喧嘩は江戸の華」と言われたように、徳川家康の入府以降、江戸の町は数多くの火事に見舞われました。中でも1657年1月18日(旧暦)に発生したいわゆる明暦の大火は、それまで約80日にわたって降雨がなく、北西の強風が吹くという悪条件も重なって、江戸城天守閣を含む江戸市中の6割以上を焼き尽くし、死者は5万人とも10万人とも言われる大災害に発展しました。

この大火に懲りた幕府は、とかく仏事などで火を扱うことが多い寺社を、徹底的に城下から遠ざけます。
千代田区、中央区は寺院が少ないことや、浅草、三田、麻布など特定の地区に寺院が集中していることは、当時の幕府による移転施策の影響によるものです。なお、当社本社所在地近くのとある寺院も明暦の大火以降に幕府の命により移転してきたとのことでした。

明暦の大火の出火原因については、放火や失火など諸説あります。出火元の本郷本妙寺の言い伝えによれば、同じ振袖を着た3人の娘が立て続けに亡くなったことから、その振袖とともに3人の娘の供養を行っていたところ、振袖に火が燃え移ったことがきっかけと言われています。

この話の一節を引用(※)します。
“・・・・梅野の棺に振袖をかぶせ野辺の送りを済ませたが、振袖は本妙寺に納めた。住職はいつものことながら、これを古着屋に売った。ところが、翌年梅野の命日に当る日、上野の紙商大松屋の娘きの(17歳)の葬式に、再びこの振袖が本妙寺に納まった。また売り飛ばすと、次の年の同月同日に、本郷の麹屋の娘いく(17歳)の葬式に、三たび、同じこの振袖が本妙寺に納まったのである。・・・”
※内閣府「災害教訓の継承に関する専門調査会報告」より(原典:『火との斗い』竹内吉平著 全国加除法令出版)

随分とオカルトな話ですが、見方を変えると当時のエコな着回し事情も伺えますね。
このように、当時は循環型社会だったと言われています。例えば、古着屋は市中に数多く存在し、人々は着物を古着屋から入手することが当たり前でした。人々の間で着回され、修復不能になれば雑巾や下駄の鼻緒などに利用しました。また、最終的には燃料の代わりとし、燃焼後の灰も肥料や洗濯洗剤として無駄なく用いました。そのため、灰の買い取り業者も存在していたそうです。

循環型社会のエピソードはこれにとどまりません。灰は肥料などに、とお伝えしましたが、肥溜めという言葉があるとおり、排泄物でさえも有効利用されていました。都市部では、長屋の共同便所の溜まった糞尿は、農家の貴重な肥料元として売買対象となっていました。古着にしろ、灰にしろ、流通市場が確立されていたということは、社会としてリサイクル・リユースが行われていたということに言い換えることができそうです。

日本書記に「・・・越國獻燃土與燃水」という一節があります。「越の国が燃える土と燃える水を天皇に献上した」と訳され、古代から日本に石油が存在していたことがわかります。しかし、日本で化石燃料がエネルギー源として本格的に用いられ始めたのは明治維新後のことで、それまではエネルギーと言えば、せいぜい魚油や菜種油などの油類しかありませんでした。いや、そもそもエネルギーという概念はありませんでした。

江戸市中の町木戸や城門は明け六つの鐘とともに開き、暮れ六つの鐘とともに閉じられました。当時は、いったん木戸や門が閉められると、よほどのことがない限り、通り抜けができませんでした。春日局が閉門に間に合わず、一晩城外に締め出されたという逸話も残っています。人々はみな、日の出と共に活動を始め、日の入りとともに1日を終えて、就寝の準備に入ったのですね。油が大変貴重であった時代、必然的にリデュースな暮らしだったのです。


当社本社が入居するビルの敷地内に置かれている手水鉢

当社本社が入居するビルの敷地内に置かれている手水鉢です。手水鉢は寺社で多く見られるものですが、前述の経緯からこちらに残されているものと考えられます。ちなみに、この手水鉢は一般的な手水鉢よりも高さがあります。縁先手水鉢と言われるタイプのもので、縁側の上から使うことを想定した高さに設計されているのです。上部の窪みに水を貯めておき、柄杓によって口をすすぎ、手を清めるのですね。

ところで、江戸の町は、総じて水の確保に苦労してきました。もともと、江戸城が日比谷入江と呼ばれた海辺に位置し、城下南東側の少なくない部分が埋立地であったことなどから、井戸を掘っても塩分が多く、井戸水をあてにできないところが多かったのです。

神田上水、玉川上水などの水道網の整備により、水を入手する環境は徐々に改善されていきましたが、人々は雨水の利用によりこれを補っていました。必要からとはいえ、これもサステナビリティに通じる行動と言えるでしょう。雨水は主に天水桶と呼ばれる木製の桶に貯めました。天水桶とは当初、防火対策のためのものでしたが、生活用水のためにも利用されていたようです。

水に関連して、当時のサステナビリティ的な活動を最後にもう1つ・・・。言うまでもなく扇風機もエアコンもない時代です。夏場、人々は涼を取る手段として、しばしば打ち水を行いました。打ち水には道端のほこりが上がることを防ぐ目的もあったようですが、涼を求める当時の夏の風物詩の1つには違いありません。天水桶に貯水した雨水が積極的に利用されたようです。きっと夏場のボウフラの発生を防ぐ目的も兼ねていたことでしょう。

SDGsがスタートしてから相当の時が経過しました。そこには崇高な目標が掲げられてはいますが、大規模な紛争も始まり、目標に向けて前進しているどころか、後退しているようにも思えます。
けっして物質的には豊かであったとは言えない時代、しかし現代よりも遥かに持続可能性があった時代に想いを馳せつつ、サステナビリティについて真摯に向き合いたいものです。